両親のこと

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今日は私の実家の両親が孫に会うためわざわざ広島(県呉市)からやってきました。
父83歳、母82歳です。

まずは次男マサキと3人で記念撮影。

ここに長男コースケ乱入。

さらに弟にちょっかい。
まるで悪役プロレスラーのノリです(笑)

ドヤ顔の兄。
ヘコたれる弟。

何とも腕白で困ったものですが、最後は何とか私も交えて記念撮影。

暴れるコースケをぐっと押さえながらなので、私が妙に力んでいます(苦笑)

3時間程度の短い滞在でしたが、元気そうな孫たちを見て、両親は喜んで広島に帰っていきました。

プロフィールなどにも書いている通り、私は16年前(2003年)に婿養子として西部製綿に入社しました。それを機に『石川』克幸を名乗っていますが、もともとは『藤本』克幸でした。苗字が変わったとはいえ、もちろん今でも二人の息子であることに変わりなく、また世間一般と比べて両親との仲も良いのではないかと思います。今回はそんな両親について綴ってみたいと思います。

父と母の実家は同じ広島県呉市の阿賀町です。二人は昭和38年に結婚し、兄と私の二男を設けました。父親は自動車メーカーマツダのサラリーマン。母親は専業主婦。いわゆる典型的な中流サラリーマンの家庭でした。

私がまだ幼い頃、父方の祖母が口癖のように『長者の暮らしじゃ』と言っていたのを覚えています。

そんな祖母の生活ぶりは、贅沢とは程遠く、極めて質素でした。

着る物がぼろぼろになっても捨てるのが『もったいない』といって着続けていました。同じ敷地内の離れの家に住み、自分でご飯を作っていた祖母ですが『ご馳走が出来たから・・・』と言って持って来てくれるのは、決まって『サツマイモの天ぷら』でした。

戦後まもなく、まだ若くして大工の棟梁をしていた夫(祖父)を亡くした祖母は、経済的にかなり苦労したようです。その日の食べ物を確保するのに精いっぱいな状態の中、6人の子供たちを育てました。そんな祖母にとっては、食べる物の心配をする必要がないだけで『長者の暮らし』だったのでしょう。

祖母に抱かれる筆者(生後2週間)

そんな家庭環境でしたから、父は中学を卒業後、定時制の高校に通いながら仕事をして家計を助けました。その後何度か転職を重ねて東洋工業(現在のマツダ自動車)で働くようになり、ようやく生活が安定したようです。

私がまだ幼かった頃は、高度経済成長の真っただ中。自動車も作るのが追い付かないくらい売れた時代で、早出、残業そして休日出勤でした。私が起きる前に通勤し、帰ってくるのは私が寝た後、休みも月に数日、そんな生活でしたが、働けば働くほどお金がもらえるので、つらいとかしんどいとか思ったことは全くなかったそうです。

そんな中、仕事が休みの日には、自動車の運転が好きな父親はいろいろな所にドライブに連れて行ってくれました。

母方の祖父は呉の海軍工廠で管理職をしていたと聞きますから、父方よりは裕福であったのではないでしょうか。しかしながらアメリカ軍による呉軍港空襲で実家は消失したそうです。また終戦後日本軍の解体により、祖父もまた職を失い民間企業で働いたようです。

私の両親もまた倹約な人でした。

私が小学生の頃、『マジンガーZ』とか『勇者ライディーン』とかいうロボットの『超合金』という大きくてカッコイイ人形が流行った事があります。友達の家に行くと必ずと言ってよいほど『超合金』が何体もあり、それがとてもうらやましかったのですが、私は結局『超合金』を買ってはもらえませんでした。ウチの家には『超合金』に限らず『おもちゃ』そのものが、どの友達の家よりも少なかったように思います。

私が『買って』とねだっても、両親はいろいろと理由をつけて(例えば『次の誕生日になったら・・・』とか)滅多なことでは買ってくれませんでした。ですから私は子供の頃、自分の実家が『貧乏』なんだと思い込んでいました。(これに関しては私の兄も同じようなことを言っています。)

両親がそこまでの意図を持っていたかどうかは知りませんが、結果としてあまりおもちゃを買ってもらえない私は、子供なりに工夫して手持ちの少ないおもちゃで楽しく遊べるよう、いろいろと自分でルールを作って新しい遊び方を考えるようになりました。その経験が生きていると言えるかどうかはわかりませんが、私は『創意工夫』といった部分に関しては、人より得意なのではないかと自負しています。

またその辺りにある“ありあいのモノ”で子供の喜びそうな遊び方をいろいろと即興で作るのが得意で、その影響で長男コースケも4歳なりにいろいろ工夫しながら遊び始めているように思います。

『おもちゃ』こそあまり買ってはくれませんでしたが、『本』に関しては、私が欲しいと言って買ってもらえなかったことは、ほとんどありませんでした。ですから私は必然的に読書が好きな子供になってゆきました。
『小学〇年生(小学館)』
『科学と学習(学研)』
が毎月届くのが待ち遠しくて、自分の分を読み漁るのはもちろん、3歳年上の兄の分まで私が横取りする勢いで読んでいました。兄は『自分より先に克幸が・・・(読んだ)』といつも怒っていた記憶があります(苦笑)

読書好きは今でも変わりません。ついつい時間があると書店に足を運んでしまいますし、最近では息子たちに本を買うのが大きな楽しみです。その時々の知育のレベルに合わせて、興味を持ちそうなものを選ぶのが腕の見せ所です。ですから息子たちも本が大好きです。

そういった意味では、私が『自称日本一文章を書くのが好きなふとん屋』などとおこがましくも言っているのも、両親の育て方の影響が大きいのだと思います。

父は定年退職して20年以上経ちますが、今でも家から少し離れた畑に原付バイクで通っては、有機栽培で野菜を育てています。採れた野菜はいつもウチにも送ってくれます。そして人付き合いの良い母親は、採れた野菜を近所の人たちに配り歩いています。そして『美味しい』と言ってもらえるのが何よりの楽しみみたいです。

また二人で軽自動車を飛ばしては旅行したり、今回のように孫の顔を見るために香川に来たりしています。二人とも人生を楽しみ、毎日よく動き、そして質素な食生活をしているから、今なお元気です。そんな私の両親は非常に『豊かな』生活を送っているように私の目には映ります。ただし・・・この場合の豊かさの基準が『モノ・金』ではないことは言うまでもありません。

そんな両親ですが、二人とも80歳を超えました。香川県観音寺市から広島県呉市まで自動車で3時間足らずの距離ではありますが、私が実家に帰省できる機会も年に数回。その合い間に父親が自動車を運転してこちらに来たりしますが、歳が歳ゆえ最近は少々心配ではあります。会うたびに『あと何回息子達と合わせてあげられるのだろう』ということを心の中で考えてしまいます。

生まれてから22年間実家で一緒に暮らし

その後13年間、学生あるいはサラリーマンとして離れて暮らし

(苗字が)藤本から石川に変わって、香川県で暮らすようになって16年

時間が経つほどに、親は年老い、その分親の有難みが身に染みてきています。

少しでも元気で長生きしてもらいたい。そんな今日この頃です。

でも私が特別何かをしてあげなくても、両親にとっては、孫たちの成長が何よりの楽しみの様子です。

そんな二人の息子たちに感謝☆

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自称“日本一”文章を書くのが好きなふとん屋

かつては神奈川県でカネボウ化粧品研究員をしていました(口紅やマスカラの処方開発担当)。現在は縁(婿養子)あって香川県で寝具店『西部製綿株式会社』の社長をしています。自称『日本一文章を書くのが好きなふとん屋』です。広島県出身の熱狂的カープファン。サッカー日本代表も応援。現在51歳ですが、4歳と1歳の男の子の子育て奮闘中。しばらくは子育て記事がメインかも(笑)
READ  【自己紹介】自称『日本一文章を書くのが好きなふとん屋』への道(パート4)

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