将棋と藤井聡太と私

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本記事のタイトルは、平成4年(1992年、私が就職した年です)の平松愛理のヒットソング『部屋とワイシャツと私』をちょっと意識しています(笑)

それはさておき、今回は『将棋』について書いてみたいと思います。

『将棋』と『私』

将棋盤と駒を買いました

このたび将棋盤と駒を新たに購入しました。

盤は本榧(かや)の一枚物で、厚みは一寸四分。

駒も銘入りのものを選びました。

つい先ほど届いたばかりですが、なかなか良い感じです。

私が将棋を始めたいきさつ

実家の父親が将棋好きでした。

父は毎週日曜日に放映されるNHK杯をいつも見たり、『近代将棋』という雑誌を片手に棋譜を並べたりしていました。それを見ていた私も、小学校低学年の頃から将棋を指すようになりました。

小学校4年生から将棋クラブに入りました。

ある時同級生に『棒銀戦法』で攻められたことがあります。

初級者同士の戦いで、棒銀戦法で攻められることの意味、それはまるで刀や槍で戦っているところに、いきなり鉄砲が現れたようなものです。

当時の私は対処方法が全く分からなかったので、2度対戦しましたが、どちらも簡単に角頭を突破され、コテンパンに負かされてしまいました。

とても悔しかったので、家に帰ってすぐに父親に棒銀対策を教えてもらい、次回すぐに返り討ちにしました。

それがきっかけとなり、将棋の定跡に興味を持つようになりました。将棋の本を買って、『矢倉囲い』とか『美濃囲い』といった王の守り方や、『たれ歩』とか『継ぎ歩』といった手筋を覚えてゆきました。

将棋に打ち込んだ高校時代

私が最も将棋に本格的に取り組んだのは高校の3年間です。

私が高校に在籍したのは、昭和58年から昭和61年にかけてのこと。昭和58年といえば、後の17世名人となる谷川浩司が史上最年少の21歳で名人位を獲得した年です。

後の羽生善治ブームや、現在進行形の藤井聡太ブームと同様に、この時は谷川浩司ブームが起こりました。

ちょうどそんな時期に、クラスメイトに将棋好きが多かったという偶然が重なりました。

私の通った広島県立広高校には将棋部がなかったので、自分たちで将棋同好会を立ち上げました。そして翌年、将棋部に昇格しました。

当時、私の1か月の小遣いは5,000円でしたが、その大部分を将棋本の購入に充てていました。定跡本とか、『週刊将棋』『近代将棋』といった月刊誌、さらには『週刊将棋』というタブロイド紙も定期購読していました

当時はまだ大山康晴15世名人(死去)や中原誠16世名人(引退)も現役でした。その他にも米長邦雄(死去)、加藤一二三(引退)など個性的なプロ棋士たちが活躍していた時代です。

私と加藤一二三

私の棋風に最も影響を与えたのが加藤一二三でした。

最近は『ひふみん』のニックネームでテレビにたびたび登場し、よくしゃべるおじいちゃんのイメージですが、加藤一二三こそ中学生プロ棋士第1号です。当時『神武以来の天才』と称されました。神武天皇、すなわち初代天皇のことですから、歴史始まって以来の天才を意味しています。

後に藤井聡太が更新することになる最年少記録のほとんどは加藤一二三が持っていたものです。

そして藤井聡太のプロデビュー戦の対戦相手が、奇しくも加藤一二三でした。

非常に大きな注目を集めた『史上初の中学生棋士』VS『史上5人目の中学生棋士』の対戦は、『現役最高齢のプロ棋士』と『史上最年少のプロ棋士』の対戦でもあり、歳の差62歳は、史上最も歳の離れたプロ棋士同士の対戦となりました。

この記録ずくめの対局で、藤井聡太は見事勝利をおさめました。これは将棋史に残る出来事であったと共に、その後の藤井聡太の飛躍を予見させるものであったと思います。

加藤一二三は『居飛車』専門の棋士で、『振り飛車』戦法に対して『棒銀戦法』を主とした急戦で戦うのをライフワークとしていました。そのため『急戦振り飛車破り』に関する定跡本を多数書いていますが、それらは私のバイブルとなりました。

当時はプロ棋士にも振り飛車を指す人が今よりずっと多く、同様私たちアマチュアにも振り飛車党が多かったです。

私は加藤一二三同様に居飛車専門で、振り飛車に急戦で挑むのが大好きでした。勝つときは豪快に攻め勝ち、負ける時は惨敗。それが私の棋風でした。

私の将棋の実力は?

当時の私の棋力は一応アマチュア2段ということになります。しかしながら将棋道場の番付やレーティングなどで、認定されたものではありません。

『週刊将棋』に出題される段位認定問題に毎週応募し、そのポイントを集計して『2段の資格認定』という、いわゆるペーパー2段です。とはいえ日本将棋連盟から正式な免状を発行してもらう権利は有していました。

しかしながら、免状の発行には数万円かかりました。高校生には大きすぎる負担です。親は『出してあげる』と言ってくれたのですが、私は『いらない』と断りました。今となっては『甘えておけば良かった』と、少々後悔しています。

微妙な大会成績

将棋大会にも何度か出場しました。

確か高校2年生の冬休みだったと記憶していますが『広島高校生将棋十傑戦』では、7位という微妙な成績を残しています。

これは予選で2連勝し、本戦(ベスト8)に進出。本戦では2連敗の後、最終戦で何とか勝って7位というものです。

私と村山聖

ちなみにこの時の会場(広島市内の将棋道場だったと記憶しています)には、当時奨励会会員だった村山聖がいました。

村山聖は期待のホープとして、将棋雑誌にしばしば取り上げられていましたし、又独特の風貌であったので、私もすぐに分かりました。

もちろん格が違いますし、ましてや中学生だったので、私たちの大会に参加していたものではなく、おそらくこの道場がホームだったので、立ち寄っていたのだと思います。

村山聖は広島出身で、私の2学年下ですが、幼いころから将棋の天才として名を馳せていました。後にプロ棋士になり、8段まで昇進しましたが、幼いころから重い病気を患っていたため、わずか29歳でこの世を去りました。

村山聖の生涯は後に『聖の青春』という題名で書籍化され、さらに映画化までされました。

追記 この記事を書いたのを機に『聖の青春』を購入して読んでみました。

そして私の記憶と事実関係がリンクしました。

当時(昭和59年12月)の村山聖は中学3年生で、奨励会の2級。連戦連勝で、破竹の勢いで昇級していた時期です。天才、そして将来の有望株として大いに注目を集め始めていました(そのため将棋雑誌にもたびたび取り上げられていました)。

村山聖は奨励会入会当初は大阪で一人暮らしをしていました。しかしながらこの当時は、健康面の理由で広島の実家に戻り、月2回奨励会の対局のために大阪に通うという生活をしていました。

そして会場となったのが『広島将棋センター(広島市中区)』です。

村山聖はここでアルバイトをしていました。アルバイトと言っても、茶碗や灰皿の片づけ程度の仕事だったようです。ですからオーナーの好意で、スポンサーとして村山聖にお小遣いをあげていたというのが実際のところです。そして誰かに求められたら、対戦の相手(指導)をしていたのだと思います。

会場にいた村山聖は、私たちの大会の様子を少し離れたところから眺めながら、手持無沙汰そうにしていました。もしかしたら誰かから声を掛けられるのを待っていたのかもしれません。

せっかくの機会だったので、村山聖に2枚落ち(飛車角落ち)でご指導願えばよかった・・・と、後悔しています。

対戦相手は全国優勝!!

私にとって最も思い出深いのが、高校2年生の夏に参加した『全国高等学校将棋選手権大会(いわゆる将棋の甲子園)』の広島県予選です。

予選には100名以上が出場していたはずですが、3試合ほど勝ってベスト16まで進出しました。そこで対戦したのがF君です。

F君の四間飛車穴熊に対して、私はいつもの通り急戦を挑めば良かったのですが、私らしくない持久戦模様の駒組で進行しました。ところが中盤に差し掛かったところで、F君の表情が一変しました。

しばらく考え込んだ後でF君の指した手は、まさに私の隙を付くものでした。形勢は一挙に私の敗勢となり、そのまま一方的に投了まで追い込まれました。全く見せ場すらない完敗でした。

しかしながら特筆すべきはその後です。F君はそのまま広島県予選で優勝しました。

そればかりか何と!全国大会でも優勝してしまったのです。

新聞でその事実を知った私は『自分が負けた相手は、そんなに強い人だったのだ』と、逆に誇らしい気持ちになったものです。F君は全国大会で優勝後、奨励会に入会し、プロ棋士を目指しました。

私は陰ながらF君を応援したものです。しかしながらあれほど強かったF君ですら、年齢制限(奨励会には何段階かの年齢制限があり、F君の場合満21歳までに初段の条件を満たすことが出来なかったと記憶しています)にひっかかって途中退会し、プロになることは出来ませんでした。

また『全国高等学校将棋選手権大会』広島県予選には高校3年の夏にも参加しましたが、同様にベスト16で敗退。ただこの大会の内容に関しては、ほとんど記憶が残っていません。

ちなみに同大会の予選の戦績に関して、ベスト8以上から主催している中国新聞(広島県の地方紙)の翌日の朝刊に掲載されます。しかしながら2年連続でベスト16敗退の私の名前は、残念ながら紙面に出ることはありませんでした。

ありとあらゆる意味で、高校時代の私の残した戦績は微妙というか、中途半端としか言いようがありません。

34年のブランクを経て

さて高校3年間、将棋に打ち込んだ私でしたが、高校卒業と共に将棋をやめてしまいました。

父親からも『大学でも続けてはどうか?』と言われましたが、一顧だにしませんでした。

今からしてみると、なぜあの時、あれほどあっさり将棋をやめてしまったのか?あの当時の自分の気持ちがよく分からなかったりします(苦笑)

結局大学時代にこれといって打ち込んだものがなかっただけに、『続けておけば良かったかな。』という思いは心の中でくすぶっています。

あれから34年。

今回将棋盤と駒を購入し、34年ぶりに将棋の駒を握ることになったのですが、そのきっかけを作ったのは、間違いなく藤井聡太です。

『藤井聡太』と『私』

もちろん私と藤井聡太に面識などあろうはずはありません。

ただ、将棋に全く興味のない人であっても、今や藤井聡太のことを知らない者はいないはずです。そして藤井聡太は今の将棋ブームに多大な貢献を果たしています。

将棋の天才

藤井聡太が史上最年少でプロ棋士になったのが平成28年のこと。それだけでも大きなニュースとなりましたが、デビューから29連勝というとてつもない記録を作りました。それまでの連勝記録が28、それをデビューから負けなしで更新したのですから、只者ではありません。

ちょうどその頃から、私はスマホのアプリで将棋を指す機会が増えてきました。

藤井聡太は、その後も様々な最年少記録を塗り替え続けていますが、この夏『棋聖』『王位』という二つのタイトルを獲得し、2冠となりました。最年少2冠、そして最年少8段昇進です。

藤井聡太は見たところ、穏やかな顔をした普通の高校生。どこにでもいそうな感じです。

しかしながら将棋の天才であることは、誰の目にも明らかです。その指し手は『AI越え(=AIが○億手読んでも見つけられなかった手)』などと評されるようなこともあります。

その強さの最大の源が、終盤戦の強さにあります。トッププロも参加する大会である『詰棋解答選手権』で、小学校6年生の時から5年連続の日本一になっています。

そして将棋に向き合う姿勢がまたスゴイ。

インタビュー記事などを読む限りでは、あのイチローの野球に対する姿勢に近いものを感じます。単なる勝ち負けとか、タイトル獲得とか、そういった部分を超越して、自分の将棋を極めている感じと言えばよいでしょうか。

親の育て方も素晴らしかったのだと思います。現役で子育てをしている自分としては、どうやったらあのような天才が育つのか?かなり興味があります。

テレビなどでも、藤井聡太の名前を聞かない日がないくらい、世間の関心の高さを感じます。

スポーツ専門紙『Number』で特集が組まれたのは特筆すべき出来事でしたが、これが大売れしたのがまたスゴイです。

ただ対局中の食事メニューが、しばしば話題になることに対しては、正直言って食傷気味(=興味なし)な感じです。

私としては、そういったものよりも藤井聡太の対局内容そのものに興味があります。

将棋盤と駒を買ったワケ

最近はインターネットなどで容易に棋譜を閲覧できます。また最近定期購読を始めた『将棋世界』には詳しい解説なども載っています。

しかしながら、今の私のさび付いた将棋脳では、棋譜を目で追うだけでは内容をしっかりと理解することが出来ません。

高校生の頃なら、『7六歩』『3四歩』といった記号と途中経過の盤面図を目で追うだけで、その内容が頭の中で再現できていました。

しかしながら今の私だと、頭の中で数手進めただけで局面がぼやけてしまいます。

長年のブランクによるものなのか?それとも加齢による脳の衰えなのか?おそらくその両方なのでしょう(苦笑)

やはり実際に盤上で駒を動かしてみたくなりました。

もちろん将棋の盤や駒は100円ショップでも買うことが出来ます。でも、せっかくならちょっと上質なものが欲しいと思いました。

ショッピングモールの玩具コーナーなども回りましたが、あまり良いものがありませんでした。そこでインターネットで購入しました。

今日届いたばかりなのですが、とても良い感じです。高校生の時に持っていたプラスチック製の駒とはワケが違います。これだけで将棋の腕がやや上達した気分になりますね。

実際には高校生の私と対戦したらコテンパンに負かされるはずですが・・・

私にとっての将棋=脳の老化対策&人生の新たな楽しみ

実際に駒を手にしてみると、何十年ぶりなので、かなり手になじまない感じといいますか、指がこわばった感じで、盤面にピシッと打ち込むことが出来ません。

でもこれから脳の老化対策として、再び将棋をやってみようと思います。まずは棋譜並べから。

これで人生に楽しみが一つ増えました♪

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自称『日本一文章を書くのが好きな寝具店社長』

かつてはカネボウ化粧品研究員をしていました(口紅やマスカラの処方開発担当)。現在は縁あって(婿養子)香川県で快眠寝具専門店『西部製綿株式会社』の社長をしています。自称『日本一文章を書くのが好きなふとん屋』です。広島県出身の熱狂的カープファン。現在52歳ですが、5歳と2歳の男の子のおっさんパパ。しばらくは子育て記事がメインかも(笑)もと研究員だけあって若干理屈っぽいかもしれませんが、出来るだけ読みやすい文章を心がけています。
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